ロンドンはバービカンへ、ロストロポーヴィチ指揮ロンドン交響楽団(LSO)の定期を聴きに行く。ついでに、コンサート前に、修理された嫁のスーツケースを取りにロンドン三越にも。ついでにジャパン・センターで米や納豆、F&Mでちょっと高めのダージリンを購入。

コンサート前半は、マキシム・ヴェンゲーロフソリストで、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。彼は12年ほど前にやはりLSOとロストロポーヴィチ指揮でこの曲を録音していて(このCD:日本発売年と録音年にズレがある)、この曲に関して僕の愛聴盤である。

プロコフィエフ&ショスタコ-ヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番

プロコフィエフ&ショスタコ-ヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番

んで、このCDも当時二十歳にも満たないヴァイオリニストの着実な解釈、演奏で素晴らしい(この方面の評価もとても高い)んだが、12年後のヴェンゲーロフは、比べものにならないくらい表現力を増していた。ハッキリ言って、ぶったまげた。

まずもって、第一楽章から「暗い!!」。このヴァイオリン協奏曲は全体的に「不安」とか「恐れ」とかがテーマとしてのし掛かっているのだけど、それをヴァイオリンの音色でじっくり聴かせる。録音では音がちとストレートで明るすぎると思っていたんだけど、コンサートでは何ともいえない、不思議な、暗く揺れる音を出していた。ここ数年ヴェンゲーロフが使っている「クロイツェル・ストラディヴァリ」のおかげもあるのかも知らん。

第二楽章は特に秀逸。ユダヤ系の舞踊音楽をモチーフにしたリズミックな楽章なんだが、CDの録音と違い、各所で微妙にリズムをずらしてくる。そこで表現されているのは「闊達なダンス」ではなくて、どこかひねくれた、わびしい、まさに「ショスタコの」ダンスなんである。何か不安定な調子で、でもその不安定さに何故か強力に引きつけられてしまう。そういうリズムの「揺れ」みたいなものを効果的出すには、指揮者やオーケストラと細部までしっかり息が合う必要があるのだけど、その辺も完璧。

第三楽章の聴き所なんと言ってもカデンツァ(ヴァイオリンの独奏)。この協奏曲中、もっともシンプルなフレーズ(つまり、弾くの自体は簡単)で始まるんだけど(でもやっぱり「暗い」)、第一楽章と同様、ともかく音色で聴かせる。テクニックが必要でない箇所こそ、演奏者の芸術性が問われるところだけど、自然に表現の深みが出ていた。

ほとんどのヴァイオリン協奏曲と同じく、快活な早いテンポで終わる最終楽章では、僕らが去年「超絶技巧リサイタル」で聴いたヴェンゲーロフが全面に出てくる。圧倒的なテクニックで、軽々と複雑なフレーズを連発。その前までの三楽章と同じ演奏者が弾いている、という目の前に展開されている事実が、その演奏者の幅の広さ、ミュージシャンとしての完成度を感じさせる。僕とそれほど変わらない、まだ31歳なんだがなあ・・・。

ちなみに、このヴェンゲーロフという奴、非常に芸術性の高い人であることは、こういう演奏を聴けば瞭然なんだが、しかし、芸術家然としたところがなく、非常に愛想がいい。コンサート後にはサイン会やるし、サインしながら笑顔で写真のリクエストにこたえたりとかするし。おそらく今世界で一番売れているヴァイオリニストなんだから、そんなことする必要ないのに・・・。こりゃ奇跡的な人物だね。

コンサートの後半は、ショスタコーヴィチ交響曲第10番。4楽章、正味60分のこれも「暗い」曲だけど、ロストロポーヴィチは通常よりゆっくりのテンポで、(例えばカラヤンの有名な解釈のように)全体として「きれいにまとめる」気が全くない。確かに僕が知らなかったこの曲の一側面を聴くことができたんだが、どうも1つピースが抜けているような気がした。何が抜けているのは分からないんだけど。

おそらく曲に表現されている「不安さ」、「不安定さ」みたいなものを(例えば第1楽章の)「美しさ」に優先させて出そうとしてたのかも知らん。でも何というか、どうもオーケストラに指揮者の意図が100%は伝わってないかったんじゃないか、という印象。まとまりがあんまり良くないというか。

でも、考えてみたらこの曲自体が「まとまりのある」曲ではないのかもしれないな。そういう意味では僕の10番に対する考え方が間違っていたのかも。カラヤンヤンソンスバルシャイと3バージョンしかCDを持ってないけど、もう少し他に試してみようかな。

それでも、ロストロポーヴィチショスタコ交響曲を振る、というのは特別な魅力があって、十分に楽しめた。スタンディング・オベーションはロンドンでは「ロストロ+ショスタコ」のコンサートの「お約束」。

コンサート後、嫁曰く「私、ショスタコーヴィチの音楽本当に好きかも・・・」。こういう「ひねくれた」趣味を共有できるのはうれしいね。